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スザンヌ・スタイナー

スザンヌ・スタイナー
スザンヌ・スタイナーは、スイスの慈善活動家。
日本をはじめ、インドなどで修道女マザー・テレサと共に活動。 2004年にアフリカの孤児を対象にした非営利団体ル・パピロンを設立した。
すたいな すさんぬ
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
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スザンヌ・ランラン

スザンヌ・ランラン
スザンヌ・ランランSuzanne Lenglen, 1899年5月24日 - 1938年7月4日)は、フランスパリ出身の女子テニス選手。第一次世界大戦後、1920年代前半の女子テニス界に君臨し、テニス競技を確立した往年の名選手のひとりである。彼女はフランスが生んだ最大のスポーツ選手であり、今なおフランスで“テニスの女神”として敬愛されている。フルネームは Suzanne Rachel Flore Lenglen (スザンヌ・ラシェル・フロール・ランラン)という。
スザンヌ・ランランは幼少時にあまりにも病弱な子供だったことから、父親が娘の健康増進のためにテニスを勧めたという。11歳の頃から父親のコーチを受けたランランは、15歳になる頃には一人前の技量を身につけていた。15歳の時、ランランは1914年全仏選手権混合ダブルスで、マックス・デキュジス1882年 - 1978年)とペアを組んで初優勝を果たした。この後第1次世界大戦が勃発し、テニスのトーナメントも戦争のため開催中止を余儀なくされたが、ランランのテニス経歴は終戦後に開花する。
ランランの出発点は、1919年ウィンブルドン初優勝であった。この決勝戦で、ランランはウィンブルドンに過去7度の優勝を誇るドロテア・ダグラス・チャンバース1878年 - 1960年アメリカ)と対戦した。優に40歳を迎えていた対戦相手との 10-8, 4-6, 9-7 に及ぶ歴史的な激戦を制し、ランランはウィンブルドン初優勝を達成する。それから同選手権では大会5連覇(1919年-1923年)を達成した。1924年に優勝を逃したのは、病気のため4回戦の試合終了後に棄権したことによる。それから1925年に6度目の優勝を達成。ウィンブルドン6勝はビリー・ジーン・キング夫人(アメリカ)と並ぶ大会歴代5位タイ記録である。ウィンブルドン選手権の女子ダブルスでは、ランランはエリザベス・ライアンアメリカ)とペアを組み、ここでも1919年-1923年1925年に優勝した。混合ダブルスは1920年1925年に優勝がある。
ランランは地元の全仏選手権でも、1920年から1926年の間に女子シングルス・女子ダブルス・混合ダブルスの3部門すべてで優勝し、通算6勝を挙げている。しかし、当時の全仏選手権はフランス人選手のみに出場資格が限定されていた。同選手権は1925年から現在のような国際大会となった。ランランの最初の4勝(1920年-1923年)はフランス人選手のみの時代、後の2勝(1925年1926年)は国際大会としての優勝として区分される。そのため、ランランの「全仏選手権6勝」は現在の女子テニス界の「公認記録」から除外されることになった。現在の全仏オープン女子シングルスの最多優勝記録は、通算7勝を挙げたクリス・エバートである。(ランランと同じ)6勝を挙げたシュテフィ・グラフは大会単独2位記録として数えられ、5勝のマーガレット・スミス・コート夫人(オーストラリア)が歴代3位に位置する。
スザンヌ・ランランは1920年アントワープ五輪でも、女子シングルスと混合ダブルスの2部門で金メダルを獲得した。女子シングルス決勝では、イギリス代表のドロシー・ホルマン(Dorothy Holman)を 6-3, 6-0 で圧倒している。混合ダブルスではマックス・デキュジスとペアを組み、決勝でイギリスのマックス・ウーズナム&キティ・マッケイン組を 6-4, 6-2 で破ったが、エリザベス・ダイアン(Elisabeth d'Ayen)とペアを組んだ女子ダブルスでは銅メダルで止まった。(この選手の名前は、アメリカのエリザベス・ライアン Elizabeth Ryan と間違えやすい。)
1921年の全米選手権は、ランランのテニス人生で最もつらい出来事だった。ノルウェー人選手のモーラ・マロリー1884年 - 1959年)と2回戦の対戦中、第1セットを 2-6 で落としたランランは、試合中に咳き込み、泣き出してしまったのである。そして試合続行不可能を宣言し、棄権となった。それ以後、ランランはもう2度と全米選手権でプレーすることはなかった。これはランランが1926年にプロ転向するまでの、アマチュア選手としての経歴を通じて唯一の敗北となる。マロリーに対しては翌1922年のウィンブルドン決勝戦において、6-2, 6-0 で雪辱を果たした。
1926年 2月16日、フランスのカンヌにある「カールトン・テニスクラブ」でランランとヘレン・ウィルスの試合が実現する。ともに無敵の2人の試合を見ようと、会場には4,000人の観客が詰めかけるセンセーションを巻き起こした。2人は期待にたがわない“世紀の名勝負”を繰り広げ、先輩のランランが 6-3, 8-6 で勝利を収めた。
1926年7月、ランランは世界で最初の「プロテニス選手」になった。興行としての「プロテニス」を創設するため、スポンサーとなった「C・C・パイル社」によるプロ選手契約書に署名した、世界最初のプロテニス選手たちの顔触れは以下の通りである。フランスのスザンヌ・ランラン、ポール・フェレー(Paul Feret)、アメリカビンセント・リチャーズ、ハワード・キンゼイ、ハーベイ・スノッドグラス(Harvey Snodgrass)、メアリー・ブラウニーの6名が、1926年の冬から1927年にかけて北アメリカで行われた史上初の「プロテニスツアー」に参加した。世界初の女子プロテニス選手となったランランとブラウニーの興行試合は、ランランの38戦全勝に終わった。その後は南アメリカを旅行し、後にテニス・スクールを開校したが、1938年7月4日白血病のためわずか39歳の若さで死去した。
全仏オープンの会場であるローラン・ギャロス・スタジアムには、彼女の名前を冠した「スザンヌ・ランラン・コート」がセンター・コートに隣接している。同大会の女子シングルス優勝カップにも「スザンヌ・ランラン・カップ」の名前がある。

4大大会優勝

  • 全仏選手権 女子シングルス&女子ダブルス:6勝(1920-23年、1925年&1926年)/混合ダブルス:7勝(1914年、1920-23年、1925年&1926年) [1923年までは、フランス人のみに出場資格があった時代の記録]
  • ウィンブルドン選手権 女子シングルス&女子ダブルス:6勝(1919年-1923年、1925年)/混合ダブルス:2勝(1920年、1925年)

関連項目

  • テニス

外部リンク

参考文献

  • ジアンニ・クレリッチ著『スザンヌ・ランラン - テニスの歌姫』(1984年刊) Suzanne Lenglen – La Diva du Tennis
  • ラリー・エンゲルマン著『テニスの女神とアメリカの少女』 The Goddess and the American Girl (英語、1988年初版、ISBN 0195043634、オックスフォード大学出版社) ランランとヘレン・ウィルス・ムーディとの比較をもとにした書籍。
らんらん すさんぬ らんらん すさんぬ らんらん すさんぬ
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スザンヌ・ヴェガ

スザンヌ・ヴェガ
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スザンヌ・ヴェガ (Suzanne Vega、1959年7月11日 - )は、カリフォルニア州サンタモニカ出身の女性シンガーソングライター
生まれてまもなくして母に連れられニューヨークへ移り、多くの社会的問題を抱えた地域で子供時代を送る。母の再婚相手がキューバ系で姓がヴェガであったため、以後その姓を名乗るようになる。9歳の時に詩を書き始め、14歳の時に作詞を始める。その後、ラガーディア高校(Fiorello H. LaGuardia High School of Music & Art and Performing Arts)で、モダンダンスを学び、この時に音楽こそが自分の求めるものだと気づく。そこを1977年に卒業すると、コロンビア大学バーナードカレッジで英文学を学ぶ傍ら、グリニッチ・ヴィレッジの小さな劇場などに立つ。1984年にレコード会社との契約を結ぶ。
1985年にデビューアルバム「Suzanne Vega」を発表し、その自己内省的社会批判を含んだ曲は、アメリカにおいて好意的な反響を得る。
1987年には「Solitude standing」を発表、その中の「Luka」という曲は、児童虐待を受ける子供の視点から書かれており、当時のヒットソングとしては、特異な位置を占める。ちなみにこのレコードに含まれる曲「Tom’s diner」は、世界で最初にMP3フォーマットになった曲でもある。このころから彼女のスタイルは、ロックへと近づくことになる。
3枚目のアルバム「Days of open hand」は、彼女にとって新境地を開かんとするものであった。神秘的シンボリズムと感情の深遠を表現しようとした試みは、非常に実験的な試みであり、彼女の更なるスタイルの変化を表したものであった。
1992年、「99.9°F」では、音楽的にフォークとダンスビート、そしてインダストリアルの融合であり、内容的に明るいイメージを伝えており、それ以前のアルバムとは対照的なつくりとなっている。
5番目のアルバム「Nine objects of desire」は1996年に発表され、「99.9°F」の曲調を伝えつつも、過去の素朴なスタイルと、さらにボサノバを加えたものとなっている。
2001年、夏に「red and gray」を発表。このアルバムでは、男女の関係が機微に飛んだ形で表現されとりわけ、その関係性の失敗や挫折が主題として前面に来るものの、曲調は高いレベルにおいて再びアコースティックな形へ移行しており、より素朴な形でそのテーマを表現している。
2008年、グラミー賞のEngineered Album部門をNon-Classical: Beauty & Crimeにて受賞。
創価学会インターナショナル(SGI)のメンバーである。

ディスコグラフィ

  • 1985: Suzanne Vega
  • 1987: Solitude Standing
  • 1990: Days of Open Hand
  • 1992: 99.9F°
  • 1996: Nine Objects of Desire
  • 1999: Tried and True: The Best of Suzanne Vega
  • 2001: Songs in Red and Gray
  • 2003: Retrospective: The Best of Suzanne Vega
  • 2007: Beauty & Crime

日本公演

  • 2008年
1月22日 心斎橋クラブクアトロ、23日 名古屋クラブクアトロ、24日 東京国際フォーラム・ホールC

外部リンク

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