ウェブ 画像 動画 ショッピング 地図 辞書 Twitter E STARTトップへ

Wikipediaの検索結果

エマニュエル・ピロ

エマニュエル・ピロ
エマニュエル・ピロEmanuelle Pirro, 1962年1月12日 - )は、イタリア出身のレーシングドライバー。エマニュエーレ・ピッロなどと表記されることもある。5度のル・マン24時間レース優勝経験を持つ。

プロフィール

F1以前

11歳の時、カートレースでキャリアを開始。1977年にはイタリア・カートレースでチャンピオンとなった。1980年にイタリアFフィアット・アバルトに転向し、初年度でチャンピオンを獲得。
1981年にはヨーロッパF3へのステップアップを果たし、初年度から1勝を記録。これを含め、1984年までの4年間の参戦で計6勝・4PP・3FLを記録。2年目の1982年のランキング2位が最高となった。
1985年1986年国際F3000に参戦し、計3勝・3PP・3FLを記録。世界ツーリングカー選手権では1986年・1987年の参戦で3勝を挙げた。
1988年より、マクラーレンF1チームのテストドライバーを務める一方、全日本F3000に参戦。最後のレースとなった1989年第4戦鈴鹿では、優勝を飾っている。

F1

1989年シーズン、ベネトンはアレッサンドロ・ナニーニジョニー・ハーバートのコンビでシーズンを戦っていたが、前年国際F3000で負った足の傷の癒えぬハーバートが、第6戦アメリカGPをもって解雇され、その後任としてピロが抜擢された。これに伴い、ピロは全日本F3000への参戦を切り上げ、第7戦フランスGPにてF1デビューを果たす。
しかしナニーニに対し大きく遅れを取り、予選では10戦全敗。決勝でも、ナニーニが初優勝を含め4度(ピロと組んだ後に限れば3度)表彰台に立ったのに対し、ピロは入賞も最終戦オーストラリアGPでの5位のみという成績に終わった。結果的には、6戦のみの参戦であるハーバートに対しても、ポイント・最高位共に下回った。
1990年はスクーデリア・イタリアに移籍した。ウイルス性腸炎で開幕2戦を欠場し、第3戦サンマリノGPから参戦するもリタイヤが多く、14レース中完走3回、最高位10位という成績でノーポイントに終わる。
1991年もスクーデリア・イタリアから参戦し、第4戦モナコGPでは6位入賞。しかし、戦闘力の低いマシン故シーズン全体では苦戦、前半には3度の予備予選落ちも喫した。
結局、1991年をもってピロはF1のシートを失うこととなった。

F1後

その後はスポーツカー・レースに転向し、1994年1995年にはイタリア・ツーリングカー選手権、1996年はドイツのSTWカップでチャンピオンを獲得するなどの成績を残す。
特に、ル・マン24時間レースにおいては1999年からアウディを駆り参戦。2000年2002年2006年2007年と5度に渡り優勝を経験している。

エピソード

  • 日本でレースをしていた時期もあることからか、好物の1つに寿司があった。当時フジテレビで実況を担当していた古舘伊知郎が、「好きな日本食は、青山の回転寿司」と紹介したこともある。
  • 仲の良いドライバーの1人にパオロ・バリラがいた。
  • 1991年のサンマリノGP予備予選において、トラブルが出たチームメイトのJ.J.レートにTカーを貸したところ、レートは予備予選を通過し、自分は終了直前に5位に落ち(4位までが予備予選通過)不通過となった。貧乏くじをひいたピロは、憤りからか決勝を待たず帰国、決勝におけるレートの3位表彰台を現場で見届けることはなかった。
    • 続く第4戦モナコGP予選では、クレーンでの移動の際壁にヒットさせるというマーシャルの不手際により、レートのマシンが破損。この際ピロは前戦と異なり、レートにTカーを貸すことを拒否したという。
  • 他のF1ドライバーと比べて胸毛が濃かったため、古舘からは「F1界の胸毛自慢」と呼ばれていた。

関連項目

  • モータースポーツ
  • ドライバー一覧
  • F1ドライバーの一覧
----------------------------------------------
出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
ご利用上の注意

検索結果   0~10 件目/約   件