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サラトガ

サラトガ
サラトガ(Saratoga)
  1. アメリカ合衆国カリフォルニア州にある都市。サラトガ (アメリカ合衆国)。
  2. アメリカ合衆国ニューヨーク州サラトガスプリングにある競馬場。サラトガ競馬場
  3. アメリカ独立戦争 サラトガの古戦場。サラトガ方面作戦を参照。
  4. アメリカ合衆国国立公園
  5. アメリカ合衆国海軍に引き継がれた伝統の艦名。航空母艦の名称として以下の二つがある。
    1. サラトガ (CV-3)(USS Saratoga、CC-2/CV-3)1927年就役。レキシントン級航空母艦の2番艦で1941年就役。たびたび攻撃を受け損傷するも終戦まで生き残り、1946年核実験標的艦として処分。
    2. サラトガ (CV-60)(USS Saratoga、CVA-60)。フォレスタル級航空母艦の2番艦で1956年に就役。1994年に退役。
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
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サラトガ (CV-3)

サラトガ (CV-3)
サラトガUSS Saratoga, CV-3)は、アメリカ海軍航空母艦レキシントン級航空母艦の2番艦。アメリカ海軍においてサラトガの名を受け継いだ艦としては5隻目にあたる。 「シスター・サラ」の愛称で呼ばれていた。
太平洋戦争で生き残った航空母艦3隻のうちの1隻で、サラトガは7個の従軍星章を授与され、1946年に海軍籍から除籍された。それまでの17年間で98,549機の航空機がサラトガに降り、最大の空母着艦記録を保持している。

艦歴

サラトガは1920年9月25日ニュージャージー州カムデンニューヨーク造船所レキシントン級巡洋戦艦の三番艦(CC-3)として起工された。しかし、ワシントン海軍軍縮条約による戦艦の保有制限で1922年7月1日に航空母艦に設計変更され、1925年4月7日カーティス・D・ウィルバー海軍省長官の夫人により進水し、1927年11月16日に初代艦長ハリー・E・ヤーネル大佐の指揮下に就役した。
就役後、1928年1月6日フィラデルフィアで艦載機を搭載した。1月27日、実験を兼ねて飛行船からの燃料補給を受け、パナマ運河を通って太平洋に向かい、2月14日にニカラグアに海兵隊の輸送を行った。2月21日にはロサンゼルスサンディエゴサンペドロ湾を拠点にする戦闘艦隊に加わって、演習に従事する。
ワシントン州 ブレマートンピュージェット・サウンド海軍造船所やサンディエゴで整備を行い、演習や訓練に従事していたが、1932年満州事変勃発の翌年にハワイへ移動し、再び演習や訓練に従事した。1941年1月6日、近代化改装のためブレマートンに戻り、それが終わると関係が悪化していた日本に対する威嚇のため、ハワイに何度か足を運んだ。

ミッドウェー海戦

1941年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃時はサンディエゴで整備中だったが、太平洋に空母はレキシントンエンタープライズしかいなかったため、急遽、ウェーク島救援のために出動し、12月15日、真珠湾を経由してウェーク島に向かった。しかし、ウェーク島が日本軍の制空権下にあり日本軍が上陸したことが判明し、12月22日にウェーク島救援は中止された。翌日、ウェーク島の守備隊は降伏した。
1942年 1月12日、空母エンタープライズと合流するためハワイを出港したが、日本海軍伊号第六潜水艦によって雷撃を受けて大破し、修理のためにブレマートンに戻り、この修理に合わせて8インチ砲が撤去され、5インチ高角砲が搭載された。5月22日、ブレマートンを発ってサンディエゴに向かい、5月25日に到着した。サラトガは航空隊を降ろしていたため搭載機がなくて作戦行動できず、新設された航空隊の訓練を行った。しかし、サラトガの航空隊は空母ヨークタウンに搭載されて、1942年6月、ミッドウェー海戦で活躍した。この時、サラトガの航空隊がハワイになければ、空母ヨークタウンも有効な戦力になり得なかった可能性も否定できない。
6月6日、サラトガは真珠湾に到着したが航空隊の補充は終了しておらず、ミッドウェー海戦の後もミッドウェー近海で警戒任務を続行していた第16任務部隊に航空機の補充を行い、アリーシャン列島方面に侵攻してきた日本軍に対して反撃も計画されたが中止され、6月13日に真珠湾に帰港した。サラトガは6月22日と6月29日にミッドウェー島へ航空機の輸送も行うなど支援に徹した。

反攻

アメリカ海軍は航空隊の補充が追いつかず、空母ホーネットが航空隊の訓練のため離脱したものの、サラトガと空母ワスプが戦列に加わった。1942年7月7日、アメリカ軍はソロモン諸島方面で反撃の準備のため、サラトガは真珠湾を出港してフィジーに展開し、8月にガダルカナル島攻防戦が始まった。サラトガは東部ソロモン海戦(第二次ソロモン海戦)で日本海軍の空母龍驤を撃沈するが、またも潜水艦の雷撃を受けた。31日に伊号第二六潜水艦が放った魚雷で行動不能に陥り、重巡洋艦ミネアポリスに曳航され、トンガのトンガタブ島へ退避した。9月2日から6日間行われた応急修理の結果、速度10ノットまで復帰に成功し、9月21日に真珠湾に帰港した。
1942年 11月10日、サラトガは修理を完了し、再び南太平洋に出撃した。12月5日、フィジーを経由してニューカレドニアヌーメアに到着し、サラトガは約1ヶ月間、小規模な作戦の防空に従事した。アメリカ軍はギルバート諸島占領を企図して作戦準備中であったため、ソロモン諸島方面の正規空母はサラトガ1隻となっていた。1943年10月20日ブーゲンビル島攻略支援のためサラトガはシャーマン少将の指揮下で軽空母プリンストンと第38任務部隊を形成、11月1日にブナを空襲して飛行場を叩き、11月5日にはラバウルを空襲して日本海軍の巡洋艦に打撃を与えた(ラバウル攻撃)。太平洋戦争中、この一連の連続空襲がサラトガ最大の活躍であった。
戦闘機を収容するサラトガ]]
11月19日、サラトガとプリンストンはナウルを攻撃した後、輸送群としてマキン島、タラワ島へ陸上部隊の輸送を行い、11月23日にギルバート諸島攻略の完了に伴いサラトガとプリンストンは集結し、タラワの防空に従事した(ギルバート・マーシャル諸島の戦い)。その後、11月30日にサラトガは戦列を離れ、1943年12月9日から1944年1月3日にかけてサンフランシスコオーバーホールを実施した。その際、40mm機関砲など対空火器の増設が行われた。
1944年 1月7日、サラトガは真珠湾に到着し、簡単な訓練を行った後、軽空母ラングレイ、プリンストンと共に1月19日に真珠湾を出撃してマーシャル諸島攻略支援に投入された。1月29日から3日間、ウオッゼ、タロア、エニウェトクを空襲し、2月28日まで防空に従事した。
3月4日、サラトガは3隻の駆逐艦に護衛されてマジュロ環礁を出発し、エスピリトゥ・サント島、オーストラリアのホバートタスマニアフリーマントルを経由して太平洋からインド洋に転戦した。3月27日、洋上で空母イラストリアス、戦艦4隻などからなるイギリス海軍艦隊と合流、31日にセイロン島に到着した。調整の後、4月16日、トリンコマリーを出撃して19日に2隻の空母はスマトラ島北西端の沖にあるサバン島を空襲、主に港湾施設と石油備蓄に攻撃を行った。同様の手法で5月17日にジャワ島スラバヤを空襲した。その後、本国に帰還した。

終戦直前

1944年 6月10日、サラトガはブレマートンに到着し、夏を通して整備を行った。8月、第11輸送航空群が編成され、サラトガは9月24日に真珠湾に戻り、夜間戦闘機隊の訓練に従事した。しかし、1945年1月29日、同様の訓練を行っていた軽空母インディペンデンスが夜間発着の困難と比べてあまりにも小さいことから、サラトガが硫黄島攻略に参加することなって急遽、真珠湾から出港した。サラトガは2月7日、ウルシーに到着して機動部隊に加わった。
機動部隊は硫黄島上陸に先立って2月16日と17日の夜に日本本土を空襲した。1945年2月21日、サラトガは硫黄島の夜間防空と父島への夜間攻撃のため、駆逐艦3隻を伴って機動部隊を離れた際、日本海軍第二御盾隊による特攻を受けて大破した。サラトガはエニウェトクを経由してブレマートンに到着し、修理を行った。5月22日に修理は完了し、ピュージェット・サウンド工廠を発って6月3日に真珠湾へ戻り、再び航空隊の訓練に従事した。日本が降伏したため、9月6日に訓練を中止して、アメリカ本土に戻る復員兵の輸送を行った。
戦中にエセックス級空母が多数就任したため、旧式であったサラトガは核実験クロスロード作戦)に使用された。7月1日の実験は軽傷で済んだものの、7月25日の実験で致命的な損傷を負い、サラトガは沈没した。放射能によるサルベージの中止によって1946年8月15日、除籍された。
現在、浅海におけるスキューバダイビングで容易に到達できる航空母艦のスポットはサラトガとオリスカニーの2つのみとなっている。

関連項目

  • アメリカ海軍航空母艦一覧
  • アメリカ海軍艦艇一覧

外部リンク

さらとか
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サラトガ (CV-60)

サラトガ (CV-60)
サラトガ(USS Saratoga, CVB/CVA/CV-60)は、アメリカ海軍航空母艦フォレスタル級航空母艦の二番艦。アメリカ独立戦争におけるサラトガの戦いに因んで命名され、同名を持つ艦としては六隻目である。

艦歴

1950年代

サラトガは「大型航空母艦」として1952年7月23日にニューヨーク州ニューヨーク海軍造船所に発注され、船体番号はCVB-60であった。1952年10月1日に「攻撃航空母艦」(CVA-60)に艦種変更され、1952年12月16日に起工された。1955年10月8日にチャールズ・S・トーマス夫人によって進水し、1956年4月14日に初代艦長R・J・ストロー大佐の指揮下就役した。
就役後数ヶ月にわたってサラトガは飛行、操艦、構造および砲撃とさまざまなテストを行い、8月18日にグアンタナモ湾に向かい整調巡航へ出発する。12月19日にニューヨーク海軍造船所のドックに再び入り、1957年2月18日まで調整を行う。調整後カリブ海で訓練を行い、その後母港のフロリダ州メイポートに向かう。
6月6日にアイゼンハワー大統領と閣僚が乗艦し訓練を視察する。二日にわたってサラトガと僚艦18隻が航空作戦、対潜水艦戦、誘導ミサイル作戦および海軍最新の砲撃、掃射技術を実証した。大統領視察のハイライトは、西海岸沖のボノム・リシャール(USS Bon Homme Richard, CVA-31)から大西洋のサラトガまで二機の F-8U クルセイダーが3時間28分で無停止飛行を行う実験であった。
サラトガは1957年9月3日にメイポートを出港し初の大西洋横断を行い、ノルウェー海でNATO軍事演習、オペレーション・ストライクバックに参加する。その後メイポートで短期間停泊した後、修理のためノーフォーク海軍造船所に向かう。
1958年2月1日に地中海に向けてメイポートを出港、最初の第六艦隊配備となる。1967年12月31日まで地中海へ8度の巡航を行い、地中海以外ではフロリダ沖で訓練または港での補修を行った。

1960年代

第六艦隊で展開中の1961年1月23日に第二機械室で火災が発生し、7名が死亡する。燃料油パイプの破裂で生じたと考えられる火災は乗組員により鎮火し、サラトガはギリシャアテネで損傷を調査した。蒸気タービンの出力は低下したものの巡航任務を継続し、帰国すると艦載機部隊を下艦させその後修理を行った。
1968年1月2日にサラトガはペンシルバニア州フィラデルフィアに向かいオーバーホールと近代化改修に入る。作業は11ヶ月にわたって行われ、1969年1月31日にフィラデルフィアを出港、ハンプトン・ローズとメイポート経由でグアンタナモに向かい、乗組員及び航空要員の訓練を行った。

1970年代

1980年代 - 1990年代

1992年秋、アメリカ合衆国、トルコを始めとするNATO加盟国は演習「エクササイズ・ディスプレイ・デタミネーション 1992 」を行う。同演習はアメリカ軍のジェレミー・マイケル・ブーダ提督を総司令官として各国海軍が参加して行われた。各国海軍は二つのチームに分かれ、アメリカ海軍のT・ジョーゼフ・ロペス海軍中将が「Brown Forces」を指揮し、それにはサラトガも含まれた。トルコ海軍の機雷敷設駆逐艦ムアヴェネト(TCG Muavenet)(元ロバート・H・スミス級駆逐艦グイン(USS Gwin, DM-33))はオランダ海軍のクルーン提督指揮する「Green Forces」に属していた。
同訓練演習に於いて「戦術上の増強」過程にブラウン軍はエーゲ海のサロス湾への上陸を試みる。ブーダ提督は各ユニットが積極的に探索し互いを「破壊する」よう命令した。両軍の機動部隊司令官には勝利を達成するため全ての戦力を使用する最大の権限があった。言うまでもなく全ての対立は演習上の攻撃であることが目的であった。
1992年10月1日、サラトガに乗艦していた戦闘指揮センター士官はシースパロー・ミサイルシステムを用いてグリーン軍への攻撃を開始することを決定した。戦闘指揮センター士官はサラトガの部隊指揮官及び戦闘グループ指揮官のフィリップ・デュアー少将の承認を得た後にシミュレーションの攻撃計画を実施した。ミサイル発射班員はその指令がシミュレーションであることを知らされなかった。
指令が進行し、ミサイルシステム・オペレーターはミサイル発射準備が完了したことを報告した。しかし標準的な用語が欠如していたため確認した士官はその報告の重要性を認識できなかった。具体的には目標捕捉システム・オペレーターは指令「arm and tune」(コンソール・オペレーターにとって実際の発射に備えてミサイルを装填、準備する指令)を出した。指令監督士官は「arm and tune」が実際の発射を示すことを理解できなかった。その結果、10月2日の午前0時直後にサラトガはムアヴェネトに対して二発のシースパロー・ミサイルを発射した。ミサイルはムアヴェネトの艦橋を直撃し戦闘情報司令室を破壊、艦の士官多数を死傷させた。
サラトガは1994年8月20日にフロリダ州メイポートの海軍補給地で解役され、同日除籍された。1995年5月にフィラデルフィアまで回航され、フィラデルフィア海軍保管所で1998年8月に不活性化され、ロードアイランド州ニューポートの寄贈艦保管所に保管された。続いて「実験用船として処分」が決定されたが、最終的に2000年1月1日に寄贈艦保管所に戻された。
サラトガはベトナム戦争の戦功で1つの従軍星章を受章した。

関連項目

  • アメリカ海軍航空母艦一覧
  • アメリカ海軍艦艇一覧

外部リンク

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